ウクライナの反転攻勢とロシア軍の内乱

ロシアは侵略したウクライナ4州を自国に

昨年2月24日、ロシアプーチン大統領はウクライナ全土制圧を掛けた軍事侵攻を仕掛けました。首都キーウとウクライナ全土の主要80都市制圧攻撃を開始しました。2014年ロシアが用意周到のクリミア半島進攻は即座に住民投票を実施し、世界はなすすべもなくロシア領に併合されました。今回のロシア侵略は年末からロシア国境に集結するロシア軍(10万人+戦車)に対して欧米とG7が一致して「制裁を科す」と忠告しました。2月4日北京冬季オリンピック開幕式を利用してプーチン+習近平会談によって対抗する姿勢を示しました。軍事大国ロシアに小国ウクライナの抵抗は厳しいものが予測され、侵略した場合欧米・G7が連携して制裁を課すことを決定しました。それでもロシアプーチン大統領は早期に決着すると想定して侵攻を開始しました。

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ゼレンスキー大統領は「キーウにいる」とSNS
ゼレンスキー大統領は「キーウにいる」とSNS

民主主義国家ウクライナは結束して対抗

ロシアは一気に制空権を取ってウクライナ全土を制圧する予定の中「ロシアは制空権を取れていない」と報じられました。ロシアは情報戦でウクライナのゼレンスキー大統領は国外へ逃亡したと偽情報を流しました。ゼレンスキー大統領はロシアの暗殺計画(ロシアが準備)を潜り抜け「ウクライナ要人と共にキーウにいる」とSNSで発信しウクライナ国民の先頭に立って戦うと表明しました。

ロシアのドンバス地域の併合戦略

2022年2月24日、ロシアのプーチン大統領は「特別軍事作戦」称してウクライナ東部2州の親ロシア派が事実上支配している地域の住民保護をあげ、ウクライナの「非軍事化」「非ナチ化」を主張、われわれの計画にウクライナ全土の占領は入っていないと述べたものの、ロシア軍はウクライナの北部・東部・南部の3方向から侵攻を開始しました。3月中に南部ヘルソン州全土制圧、東部2州、ウクライナ第2の都市ハリキュウ州、北部ベラルーシ国境を越え首都キーウへ攻め込みました。雪解けのぬかるみにはまるロシア戦車部隊の長蛇の列で動けず、首都キーウの近くに侵攻したロシア軍はブチャの街で残虐行為が行われました。有名なチエルノブイリ原発も制圧されました。一方、ウクライナ軍はキーウへ進行するロシア軍を待ち構えて反撃を加え続けました。ウクライナは国民が団結する力を発揮、ロシア軍は攻撃の侵攻理由が示されずなんのための攻撃かわからない進軍でした。ロシアの戦況が芳しくなく、4月に入って首都キーウを諦め撤退、東部・南部にロシア軍を移動集結させ、ドンバス2州と南部サポリージャ・ヘルソン死守する戦略を変えた。

  • ロシア進攻は2月24日~10日間でウクライナ全土を掌握する計画であったと後に報じられています。西側も戦況に応じて武器を小出しでウクライナに提供してきました。
  • 世界最大の核保有国ロシア・プーチン大統領は「核の使用をチラつかせ」ウクライナ支援国(欧米NATO・G7先進国)に対して「核の使用」繰り返し威嚇しました。
  • ロシアの特別軍事作戦は16ヶ月経過して、プーチン大統領はウクライナへの特別軍事作戦が欧米・G7など世界と戦っているとロシア国民に表現を変えています。

大国ロシアのウクライナ東部4州の併合に焦り

反転攻勢の始まり、巨大ダム決壊の大被害

南部ヘルソン州の巨大「カホフカダム」決壊により、ウクライナはロシアの爆破、ロシアはウクライナ砲撃によって破壊された主張している。

  • 決壊でドニプロ川下流の水位が急上昇し30の町や村が洪水に見舞われ、16000人の住民が棄権にさらされ、避難を余儀なくされる。
  • ダム決壊は、上流のサポリージャ原子力発電所やクリミア半島への水供給に影響する。
  • ロシア軍が敷き詰めた地雷が浮き上がり流された。住民や救援者に危険を及ぼす。
  • ダム決壊は、国際社会の反応もあり、国連緊急会合を開催、民間インフラへの攻撃は直ちにやめるべき意見が相次いだ。

「ウクライナ反転攻勢」は千数百㎞に及ぶ防衛線を構築するロシア軍にとって、死守する防衛ラインで、ウクライナは侵略されたウクライナ領土(東部・南部4州・クリミア半島)の奪還の反転攻勢で欧米から授かった戦車・ミサイル・砲弾をフル活用してロシアの防御線を突破して奪還する厳しい戦いが始まりました。

ワグネル創始者プリコジンと兵士 軍への要望を発信
ワグネル創始者プリコジンと兵士 軍への要望を発信

ロシア民間軍事会社「ワグネル」蜂起

巨大軍事国家ロシアは世界の各地の紛争(シリア・中央アフリカ・・)の紛争や利権に民間軍事組織「ワグネル」の創始者・プリコジンを利用しています。ウクライナ侵攻に際しても厳しい戦いの中で最大の激戦地「バフムト」の侵略・防衛の重要な役割を担っていました。バフムト攻略後、ロシアの正規軍に引き渡し退去しました。最後の激戦の時、ロシア国防省のトップを痛烈に批判し存在感を鼓舞していました。ロシア軍は民間軍事会社の組織を7月1日までに「ロシア軍と契約し軍の指揮かに組み入れる」措置を発表し、ワグネルは契約を拒否し、ロシア軍の上層部と激しい対立が起こっていました。

6月24日ワグネル創始者・プリコジンは25000人の兵士を率いて「モスクワへ進軍開始」モスクワへ200㎞」のところで撤退を表明、プリコジン・及び兵士はベラルーシへの亡命を許されました。

この事態は、ウクライナとの戦況・プーチン大統領の統治にも大きな影響が残ります。