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大阪を象徴する通天閣と大阪城

上町台地に築かれた大阪城と商人の街大阪

織田信長の家臣であった秀吉、本能寺で織田信長が家臣の明智光秀に討たれたのを知った秀吉は四国の戦場から取って返し明智軍を倒し各地の武将と戦い1580年全国統一を成し遂げた。大阪城は織田信長の命を受けた羽柴秀吉が築城に関わり全国を制定した後に大阪城に入って祭りごと(政務)を行った。天皇の都である京に通じる淀川に面し、水路を張り巡らした大阪の街は敵に備え、海運を使った商都を作り上げたのが「水の都大坂」です。中国の史にある卑弥呼は大和王朝(奈良盆地)を築き日本を統治していると記されている。倭人伝では空白の4世紀があり、仁徳天皇などは難波宮(上町台地)で祭りごとを行っていたことが日本書紀などからうかがえます。日本一の古墳、仁徳天皇陵は大阪平野の中百舌鳥にあります。堺・古市古墳群は天皇陵として奈良から生駒・金剛山系を超えた大阪平野にたくさん残されています。巨大な墓は大阪湾に入ってくる敵に威厳を示したと言われています。

何度も焼失を繰り返した大阪城

石山本願寺跡に建立された大阪城の盛衰

戦国時代初期から安土桃山時代にかけて、摂津国東成郡生玉荘大坂に浄土真宗の寺院である石山本願寺の要塞がありました。織田信長との石山合戦で敗れ明け渡し本願寺は焼失しました。淀川・昔の大和川と海に囲まれた高台の要塞でした。海の要衝、渡辺灘(本町)難波灘(道頓堀)・住吉灘(住吉神社)で交易が盛んに行われていました。上町台地の南北に上町活断層地帯があり東西で大きな段差があります。自然の要塞の上町台地に大阪城が建立されました。

大阪のシンボル大阪城は豊臣秀吉が15年かけて造ったが大阪夏の陣で焼失し豊臣も滅びました。徳川2代将軍秀忠が堀を深くして再建しました。30数年で落雷による焼失で江戸時代は天守閣はない状態でした。明治になって再建が準備され昭和初期に現在の大阪城ができました。 大阪城内は陸軍砲兵部隊の拠点で砲弾なども作っていました。アメリカ軍によって集中砲火を受け周辺は焼け野原となりました。

日本の元号「大化」645年皇極天皇は難波宮で祭りごと

上町台地は奈良・京都の都と同じ遷都があった

ヤマト朝廷の藤原京(奈良橿原明日香村)は平城京に遷都するまでの日本の首都であった。平城京時代に一時期難波長柄豊崎宮で祭りごとを行っていた時期があったと記述されています。藤原京時代にも仁徳天皇などが難波宮付近で祭りごとを行っていたと書かれています。大阪湾に面した高台にあり、上町台地は国内外の交易の要衝の場所として、大和時代から難波宮で祭りごとを行っていたと思われます。当時は奈良・京都の同じように国の中心地で会ったことが伺えます。

大阪の人も知らない「大和川の付け替え工事」は江戸時代(1704年)に現在の堺市へと流れが変更になりました。生駒・金剛山系から流れる水は河内平野を辿って上町台地(大阪市内)に流れ込んでいました。湿地帯であった八尾や東大阪で氾濫を繰り返し、江戸幕府の命で付け替えが行われました。