· 

統合型リゾート 万博・IR事業  大阪の復権

上町台地大坂遷都と百舌鳥古市古墳群

大阪府堺市「百舌鳥古墳群」、羽曳野市・藤井寺市「古市古墳群」は2019年7月6日アゼルバイジャンバクーで開かれたユネスコ世界遺産委員会で大阪初の世界文化遺産に登録されました。G20大阪(世界の首脳が一同に会する議長国日本)6月大阪で開かれた翌月に決定され、大阪初の文化遺産登録に沸き返りました。前年2018年11月にフランスパリで2025大阪・関西万博が決定され大阪悲願の夢洲による復権の歩みがすでに決定されています。2020年~3年間に及ぶ新型コロナウイルス蔓延によって復権の歩みが一時止まりましたが、コロナの収束、IR事業決定によって大阪の活力が加速することが期待されます。

古墳時代のヤマト王朝は大阪で祭りごと

大坂に権力を象徴する古墳群が存在する時代にヤマト王朝の祭りごとは上町台地に仁徳天皇などが宮を構え倭の国(日本)の統治を天皇を中心に行っていたと古事記・日本書紀に印されています。古墳時代まで淀川の水がせき止められた「河内湖」の存在があり大和川も河内湖に流れていました。湖は古墳時代に消滅し河内平野となったことは大阪の人にも余り知られていません。花博会場の鶴見緑地などは河内湖と湿地帯で、八尾のあたりも1600年頃にも湿地帯が戦場になったと言われています。2800~9000年前に上町活断層が動いて西側に乗り上げて出来た台地で河内湖が埋まって河内平野になった言われています。淀川水系と大和川水系の氾濫に悩まされ、大和川は後に大阪湾に直接流す工事が行われた。大和川は1704年(宝永江戸時代)柏原で北を堰き止め8ヶ月280万人の労力で堺から大阪湾へ14㎞の水路の付け替えを行った。

天下統一豊臣秀吉の大阪城築城

1583年(440年前)豊臣秀吉が天下統一の地を大坂に決め、石山本願寺の跡地を信長の安土城の天守を凌ぐ5層の大天守閣大阪城の築城を開始しました。

関ヶ原の戦い(1600年)後、徳川征夷大将軍に攻められ冬の陣(1614年)・夏の陣(1615年)で天守が焼き落ちました。しかし秀吉が築いた商都としての大阪の繁栄は江戸時代も続きました。さらに商魂たくましい「大阪」は明治維新後も水都大坂の街として息づき、明治~大正~昭和においても住友財閥・伊藤忠・丸紅など商社・武田薬品・松下・シャープ・三洋、竹中工務店・大林組など多くの本社機能が存在しました。

第2の都市大阪 復権シナリオ再浮上

戦国時代から豊臣秀吉が大坂に築城し、都市機能を備えた商業都市を作りあげました。江戸時代には全国の米を集めた「淀屋」などが日本の商業都市大坂を反映させました。古くは古墳・弥生時代仁徳天皇などが大阪城付近の難波旧跡地付近でヤマト王朝の祭りごと(政治)を行っていたと古事記や日本書紀に記されています。堺・古市古墳群が世界遺産として残されています。古くは京都・奈良の瀬戸内海洋貿易の湊とし、堺は鉄砲、茶道の町として栄え、武家政治にも大きな影響力を持っていました。江戸時代は日本の台所、商都大坂として繁栄、、明治維新後も政治の東京と商業の街大坂として栄えてきました。1991年バブル崩壊後(平成期)大阪は東京一極集中の影響で大阪の大手企業の本社を東京に移すことで衰退が始まりました。

大阪府・市一体の二重行政の改革断行

豊臣秀吉が大坂築城と併せ、水の都大坂の水路を整備して商都大阪の街づくりを行い、遷都奈良・京都を水路で交易の拠点としました。江戸時代も(政治は江戸・商業は大阪)の仕組みは維持され大阪は繁栄しました。明治維新後も変わることなく商業都市大阪の地位は存続されました。1923年(大正12年)関大阪市長誕生によって御堂筋建設が立案され、近代都市大阪の発展の素を作りました。100年の今、大阪市の権威は「府・市一体」の二重行政改革で「衰退する大阪の復権を掛けた大改革」を実践しています。水道事業・府大・私大合体➾大阪公立大、大阪市民・府民病院の統合、さらには行政の改革など矢継ぎ早に実行してきました。大阪市の負の遺産となった大阪湾の埋め立て洲「夢洲」の悲願の2025大阪・関西万博誘致・2029年のIR事業誘致」決定、大阪の中心地大阪駅北側の再開発”うめきた2期工事”など幾つもの改革を行ってきました。