
大阪の都市計画 御堂筋拡幅と地下鉄建設
1920年代の**「大大阪時代」**に立案された大規模な都市計画構想です。当時の関一(せき はじめ)大阪市長の下、大阪の近代化と将来の発展を見据えて推進されました。
構想の経緯と詳細
計画立案の時期: 御堂筋の拡幅と地下鉄(現在の御堂筋線)の建設構想は、1920年代(大正時代後期)に具体化しました。特に1925年(大正14年)には、4路線からなる総延長約56kmの高速鉄道計画路線網が策定されています。
「大大阪時代」の背景: 当時、大阪市は東京市をしのぎ日本最大の人口を擁する「大大阪」と呼ばれていました。人口の急増と都市の拡大に伴い、深刻な交通渋滞や都市機能の不備が課題となっていました。
関一市長のリーダーシップ: この構想は、都市計画の泰斗(たいと)の一人とされる関一市長によって強力に推進されました。彼は、将来を見据えた大胆なインフラ整備が不可欠と考え、当時の財政難の中でも計画を進めました。
「都市計画」と「交通」の一体整備:
御堂筋: もともと道幅が約6m程度の狭い通りでしたが、都市のメインストリートとして幅員44mにまで拡幅されました。これは、パリのシャンゼリゼ通りをモデルにしたとも言われる壮大な計画でした。
地下鉄: 拡幅された御堂筋の真下に、日本初の公営地下鉄として建設が進められました。道路の地下に鉄道路線を敷設するという手法は、都市計画上の配慮が加えられた一体的なアプローチでした。開業: 1933年(昭和8年)5月20日、日本初の公営地下鉄(現在の御堂筋線)が梅田駅~心斎橋駅間で開業しました。
近代化への影響
この「御堂筋・地下鉄構想」により、大阪の南北の交通軸が確立され、都市の骨格が形成されました。これは、その後の大阪の発展と近代化に不可欠な基盤となり、現在に至るまで大阪の大動脈としての役割を果たし続けています。

御堂筋は北へ新御堂筋として延伸
御堂筋は昭和初期に「大大阪」構想の一環として整備された南北軸の大動脈。梅田から難波までを貫くこの通りは、当時としては画期的な幅員(約44m)と美しい銀杏並木で、まさに「モダン都市・大阪」の象徴的な道路です。1970年の大阪万博を見据えて「新御堂筋」として梅田から北へ国道423号を淀川を越えて千里・箕面方面へと続く高架道路を整備し、北の交通の大動脈となっています。地下鉄も御堂筋線を延長して箕面までつながっています。戦前からの壮大なビジョンが今に続いています。心斎橋から南への延伸1935年難波駅、1938年天王寺駅、1964年西田辺駅、1969年我孫子駅、1987年中百舌鳥駅で全線開通となり
1970年地下鉄は北へ千里中央駅1970年開業、2024年箕面萱野駅開業が現在

大阪の発想 驚きの御堂筋一方通行
御堂筋の一方通行は、まさに「都市の大転換」とも言える出来事だった。昭和45年(1970年)大阪万博の実施前に交通停滞を解消するための交通改革は、当時の大阪市民にとっても衝撃的でした。「驚きの御堂筋一方通行化」です。
なぜ一方通行に?
当時の大阪は高度経済成長の真っ只中で、モータリゼーションが急速に進んでいた。御堂筋は南北両方向の交通を受け止める幹線だったけれど、交通量の増加に対応しきれず、慢性的な渋滞が発生していた。
そこで打ち出されたのが、御堂筋を南行きの一方通行にするという大胆な施策。北行きは並行する四つ橋筋・堺筋線に任せることで、交通の流れをスムーズにしようという狙いだった。
市民の反応は?
当初はもちろん、戸惑いや反発もあったよ。「なぜあの広い道路を一方向に?」という声も多かった。でも、実施後は予想以上に交通の流れが改善され、結果的には都市交通のモデルケースとして評価されるようになっています。
都市デザインへの影響
この一方通行化は、単なる交通政策にとどまらず、御堂筋の都市空間としての性格にも大きな影響を与えました。歩道の拡幅や街路樹の整備、ビルのセットバックによる景観形成など、今の「美しい御堂筋」の基盤はこの時期に築かれたとも言えます。
たとえば、今進められている御堂筋の歩行者空間化は、ある意味でこの一方通行化の延長線上にあるとも言える「車から人へ」という都市の価値観の変遷を感じさせる。
先日、難波駅のロータリーに行く機会があり、全ては歩行道路に変わっているのに驚きました。都市の幹線道路が「人の道」へと変わっていくことに、希望を感じる?それとも、課題も見えてくるかな?
なんば高島屋前のロータリーが「歩行者中心のなんばひろば」に2025大阪・関西万博前に再整備?驚き、車は何処に行ったのか?

御堂筋の高さ制限を撤廃
御堂筋の高さ制限撤廃、これは大阪の都市景観と経済戦略の両面において、非常に象徴的な転換点でした。まさに「空に向かって開かれた都市空間の扉」とも言えるような出来事でした。
御堂筋の高さ制限は完全に撤廃されたわけではなく、緩和・見直されてきましたが、2013年頃の規制緩和により、淀屋橋〜本町間では低層部50mの統一を保ちつつ、上層部を後退させることで高さ140m程度まで建設可能となり、高層化が進んでいます。元々31m(百尺)制限がありましたが、1995年に50m(軒高)に緩和され、2014年頃にはこの緩和が実施され、超高層化への道が開かれました。この緩和は、老朽化ビルの建て替え促進と街の活性化を目的とし、航空法による200mの上限と、防災・環境配慮による容積率特例も設けられています。
🌆 なぜ高さ制限があったのか?
もともと御堂筋には、約31メートル(100尺)という高さ制限が長らく設けられていました。これは昭和初期の都市美観条例に基づくもので、御堂筋の美しい街路樹や、左右対称のビル群による「都市の軸線美」を守るためのものでした。
この制限があったからこそ、御堂筋は「低層で統一された美しい通り」として、東京の丸の内やパリのシャンゼリゼ通りにも比肩する景観を保ってきたとも言えます。
🏙️ なぜ撤廃されたのか?
2000年代に入り、国際競争力のある都市づくりが求められる中で、「この高さ制限が都市の発展を妨げているのでは?」という議論が高まっていました。特に橋下市長時代には、「御堂筋を世界に誇れるビジネス軸に」という構想のもと、再開発の構想が浮上しました。
そして2013年、ついに高さ制限が撤廃され、地区ごとに柔軟な高さ設定が可能になった。これにより、淀屋橋や本町周辺では高層ビルの建設が進み、御堂筋のスカイラインは大きく変わり始めたんだ。
🌿 景観と経済のせめぎ合い
この撤廃には賛否両論があったことは間違いない。
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賛成派:「都市の魅力と機能を高め、外資や人材を呼び込むには高層化が不可欠」
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反対派:「御堂筋の歴史的景観が失われ、都市のアイデンティティが薄れる」
でも、最近の再開発では、低層部に御堂筋らしい素材やデザインを取り入れるなど、景観との調和を意識した工夫も見られるようになってきた。これは、単なる「高さ」ではなく、「都市の文脈をどう継承するか」という問いに対する一つの答えかもしれません。
都市政策と歴史の両方に目を向けておられる方なら、この変化をどう受け止めておられるのか、とても気になります。 御堂筋の未来、どんな姿が理想だと思う?「高さ」だけでなく、「深さ」や「にぎわい」も含めて、どんな都市軸になってほしい?
御堂筋の年末恒例イルミネーション
高度成長期、満員の地下鉄に揺られて急ぎ足で淀屋橋駅を利用していた一人として、銀杏並木も観る余裕もない通勤ラッシュを走り抜けていました。
8年前まで、11年間本町の四ツ橋界隈の事務所にいて、色々な御堂筋を観てきました。平成不況期に歴史ある経済都市の中心地ビル群が欠けていくのを見てきました。東京一極集中により大阪本社の企業が幾社も御堂筋界隈から東京本社移転の光景によるさみしさと、無念さを感じました。今も、御堂筋沿いのビルが壊されパーキングの個所もあります。
御堂筋は商業都市の象徴の場所でもあり、ショールームなどもありました。しかし、大阪駅北側のうめきたにグランフロント大阪(2013年開業)に併せて一斉に移転し、ビルテナントも歯抜け状態になるさみしさがありました。
2025年淀屋橋の東西に140mのツインタワーが完成しました。タワー完成とイルミネーションを観に先日訪れました、淀屋橋⇒本町まで銀杏並木の黄色のイルミネーションを観ながら「大阪の活力と発展」を描きながら歩きました。
淀屋橋北側に御堂筋を挟んで東側に大阪市庁舎、西側に日本銀行大阪支店の歴史的建物があります。













