大阪の活力 大阪の都市復活の歩み ①

  豊臣秀吉は1583年大阪城建立

豊臣秀吉は安土桃山時代の1583年大阪上町台地に権勢を振るい大規模な大阪城を建立、堀と石垣で囲み、水路を巡らし大阪の街づくりの巨大工事を行いました。城下町の中に水路を巡らし商いの街をつくりで今もその基盤が生かされ残されています。1614年大坂冬の陣、1615年大坂夏の陣で大阪城と城下町は焼かれ、豊臣家は滅亡しました。勝利した徳川家康は江戸城に遷り、江戸幕府と明治維新後も東京が日本の首都となってきました。江戸時代は大阪城の再建と街の整備を行い「商いの街」として復活しました。

東京一極集中で大阪衰退の裏側

バブル崩壊後、多くの本社機能が東京に移り一極集中が加速しました。しかしその流れは1950年代から徐々に進んでいました。鎖国の江戸時代は日本の産業は各藩で産業を起こし海の航路を使って商いを行っていました。江戸は徳川家を守る居城で参勤交代で忠誠を誓う統治を行っていました。明治維新後も地方の産業を商いによって全国に流通しました。戦後日本は復興の足音の中で、農業・漁業・林業の振興に始まり繊維産業による工場ができ集団就職・出稼ぎ労働者で戦後復興の礎を築きました。

企業城下町が地域の繁栄をもたらす

高度成長期において各地にできた企業城下町は江戸時代、明治維新から受け継がれた地域産業を中心として栄えた産業に高度成長期を担った自動車・電機・化学製品の開発・発展による生産工場拡大によって、化学コンビナートや企業城下町が出来、労働人口が集まりました。当時は狭い東京に集まるのではなく、工場・本社機能は各地にありました。バブル崩壊以降工場は海外移り、工場・労働人口の衰退により地方都市機能は衰退していきました。 銀行・大手企業も合併を繰り返し地域統治機能も東京に遷る結果を招きました。大阪市の人口は1964年東京オリンピック前が最高で減少に転じ近年は横ばいか少し減少しています。第2の都市大阪市ですが横浜・名古屋などに迫られ活力を失ってきました。特に大阪はオリンピック誘致再々の失敗など厳しい財政基盤に陥り、衰退の一途をたどってきました。

大阪府に巨大権力組織大阪市の存在

2007年11月3選の太田房江知事は講演料などの金銭問題で各党が支援を見送ったことから辞退し、自民党・公明党の府議団、堺屋太一(1970年通産省官僚で大阪万博の企画)歌手・司会者のやしきたかじんなどに担がれて”38歳、茶髪の風雲児橋下徹弁護士(コメンテイター)が出馬しました。”自民党大阪府連と公明党の推薦を受け出馬183万票獲得してダブルスコアで圧倒大阪改革が始まりました。2010年には自民党を飛び出した松井一郎と組んで大阪維新の会(府議6名)を立ち上げ大阪改革にまい進しました。橋下知事は府の行政を進めるに、大阪府に府よりも権力ある巨大な組織大阪市が存在することで、二重行政の弊害を感じ「不幸せ」として府市統合の必要性を主張し始めました。

2012年大阪府・市ダブル選に臨む

橋下知事は臆せず大阪の財政再建と改革にまい進し、ことごとく対立する大阪市と二重行政にメスを入れるために自ら市長に挑戦することを決意、盟友松井氏を知事に自ら鞍替えして知事・市長選のダブル選挙に臨みました。2011年11月選挙結果は画像の通りで、維新に対して全ての会派が団結して阻止に向かいました。選挙は自民・公明・民主党・共産党が共闘して維新と戦う異常な選挙で今もその流れが残されています。橋下徹は市長の第一声は市庁にある組合事務所の撤去を告げる。長年の慣習の排除から戦いが始まりました。

5年前の都構想 住民投票否決

橋下徹市長と松井知事が率いる維新対全党反対の構図の中で橋下市長は敗れたら引退すると退路を断って2015年5月の住民投票に臨みました。結果は投票率66.83% 賛成69万4844票(49.62%)反対70万5585票(50.38%)の極差で敗れ橋下徹は敗北を認め12月政界を引退すると表明、選挙で大阪市長新人吉村洋文・松井一郎再任で就任しました。都構想を実現したい維新は再度鞍替えダブル選挙を行い勝利し、5年をかけて府市法定協議会の議論を重ね本日(2020年11月1日、2回目の住民投票)を議会決議しました。

2重行政の弊害の除去と住民サービスの低下をかけて投票

明治以来150年続けられてきた府市の行政の大改革は、変えてほしくないと望む住民と2重行政の弊害による無駄の排除を推し進める政権との戦いの判断を住民に問う選挙、大阪・国にとっても行政の在り方を問う重要な住民投票になります。大阪は維新政党による歪な政治体制が続いています。