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本四連絡橋・国家プロジェクト

本州~四国を結ぶ宇高連絡船沈没事故

明治22年香川の代議士大久保じん之丞が四国と本州に橋を架ける必要性を唱えた、大正時代に徳島の代議士が鳴門橋を、昭和初期に神戸市長が明石海峡架橋を提唱されました。1955年(昭和30年)宇高連絡船が沈没し修学旅行の小学生など168名の死者。前年1954年青函連絡船洞爺丸の沈没事故がありました。

本四連絡橋建設の悲願達成

戦後復興と高度成長の中で四国4県は本州への連絡橋建設が悲願でした。瀬戸内の島々を利用して各ルート案が示され3ルートが決定されました。1973年(昭和43年)オイルショックで着工延期、ようやく1988年(15年後)瀬戸大橋が完成開通しました。バブル崩壊・阪神・淡路大震災を経て明石海峡大橋2006年しまなみ海道(今治~尾道)が開通完成悲願達成しました。

島国日本をつなぐ海底トンネル・連絡橋

島国日本は船で交易をおこなっていました。明治になり、産業革命で発展する西欧の列強を目にして国の発展を目指しました。明治以来、島をつなぐトンネル・連絡橋国家的大事業構想が唱えられました。

九州と本州の連絡は下関・門司でつなぐ

1942年(昭和17年)本州と九州を結ぶ関門海峡鉄道トンネル開通。1958年(昭和33年)世界初の海底トンネル道路(有料)開通。1974年(昭和49年)山陽新幹線が走る新関門トンネルが開通。1973年(昭和48年)1068m、最大支間長712mは当時、東洋最長の高速道路橋の完成。

本四連絡橋の維持管理・メンテナンス

国家的プロジェクトの本四連絡橋(瀬戸大橋・明石大橋・鳴戸大橋・やまなみ海道)の難しく、厳しい維持管理・メンテナンスについてKEYワード「本四連絡橋メンテナンス」を検索の中で「本四連絡橋」の成り立ちを「気になる記事」にしました。