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世界的感染拡大 国連の経済社会局の報告

新型コロナウイルスはWHO→経済指標へ

5月13日国連経済社会局は新型コロナウイルスのパンデミック(世界的流行)で経済活動が急速に制限され、2020年世界経済は3.2%縮小することが見込まれ、最大4.9%まで拡大する指標を発表しました。

1月21日の中国習近平国家主席の武漢市の閉鎖(ロックダウン)から始まって4か月の短期間で感染者数は450万人・死者数30万人に達し、国連WHOが感染拡大の脅威を表明し続けています。同時に国境封鎖・都市封鎖・事業活動の停止などにより、短期間で経済活動が縮小し厳しい経済状況が起こっています。特に4月からの経済大国アメリカの感染拡大(米国感染者数144万人・世界の32%)は世界経済に大きな打撃となっています。国連の経済社会局は5月13日社会経済指標を発表しました。世界は感染拡大の阻止(WHO)と経済活動(経済社会局)の両立を図る段階にあると動き出しました。日本も39県の緊急事態宣言解除と8都道府県の宣言延長が決まりました。

1929年米国の株暴落に始まる世界大恐慌

世界大恐慌は1929年ごろにはじまり1930年代後半まで続いた長期経済不況です。90年前の株価暴落によっておこった経済混乱はGDP(経済指標)で15%下落し世界大恐慌として語り継がれています。画像は銀行の前に市民が殺到した光景です。第一次世界大戦~世界大恐慌~第二次世界大戦に発展した最大の長期経済不況です。この頃の日本人は満州に新天地を求めて移り住みました。日本人の移民は明治初期、ハワイ・北米・南米に、日清戦争後アジアへの移民もありました。戦後の移民は南米のみで、一時期北朝鮮への楽園帰還がありました。戦争や経済不況・疫病(感染症)・災害は多くの人を苦しめてきました。今回の新型コロナウイルスの広がりは、グローバル社会における大きな試練となっています。

1945年 米軍爆撃機B29の東京集中爆撃によって焼け野原となりました。
1945年 米軍爆撃機B29の東京集中爆撃によって焼け野原となりました。

 敗戦国日本の戦後復興と高度成長~バブル崩壊

日本は第二次世界大戦によって最後の激戦地沖縄陥落・東京・大阪などの都市の集中爆撃・広島・長崎の原爆投下を受け敗戦国となりました。焼け野原の中(画像 首都東京)から一歩一歩復活の足跡を残してきました。生まれた人は75歳の後期高齢者になっています。戦争を知らない世代が今の日本を支えています。戦後復興を支えた紡績工場への集団就職などで東京・大阪の労働人口を支えました。1964年東京オリンピック・1970年大阪万博の高度成長期を迎えました。しかし、1973年のオイルショックによって物価高騰(インフレ経済)が起こりトイレットペーパーがなくなり、道頓堀のネオン・深夜テレビが消え、戦後初めてマイナス成長となり石油資源のない日本は危機を迎えました。

プラザホテルの先進5か国蔵相(日本 竹下昇大蔵大臣)
プラザホテルの先進5か国蔵相(日本 竹下昇大蔵大臣)

高度成長とプラザ合意(為替変動)

戦後の日本は低賃金と勤勉さによって復興を成し遂げ、高度成長へと突き進んでいきました。

高度成長をたどりながら、オイルショックも乗り越えて成長した過程の中で為替レート(360円/ドル)の固定レートがアメリカ経済を脅かしていることから1985年、ニューヨーク・プラザホテルで先進5ヵ国(アメリカ・フランス・イギリス・西ドイツ・日本)の蔵相・中央銀行総裁会議が開かれ、レーガン政権下(日本は中曽根康弘首相・ロン・ヤス時代)のアメリカ経済の苦境を救済する、円の協調介入により240円/ドルの変動相場制になり、一気に200円にまで円高が進みました。日本は厳しい状況を乗り切るために、国内需要の喚起と消費拡大を目指して、大胆な金融緩和策で乗り切ろうとしました。後の土地バブル経済に突入していきます。

アメリカ ロックフェラー財団ビル 三菱地所買収
アメリカ ロックフェラー財団ビル 三菱地所買収

日本のバブル経済の好況とバブル崩壊(1986/12~1991/3)

日本の50歳以上の人はバブル経済と崩壊の衝撃を受けてきました。プラザ合意による為替の変動制により、日本は輸出産業が厳しい状況に陥り、政府・日銀は大胆な金融緩和に踏み切り、国内需要の喚起を促しました。1986年12月~1991年3月までの4年3か月を「バブル経済」と表現しています。高度成長期の中で日本は国内需要が残されていたことから、土地・住宅建設・自家用車・家電製品・旅行・遊興施設利用などが起こりました。政府や経済界も容認し、ダブついた資金を土地・株・ゴルフ会員権・遊興費・リゾート地開発などにつぎ込み高騰する経済に疑問を感じず踊り狂いました。三菱地所がアメリカの象徴的資産ロックフェラービルを買収(画像)する状況になり、破綻の道へと進みました。

当時東京山手線の内側の資産でアメリカが買えるとまで言われました。1991年3月バブル崩壊を迎え、銀行の倒産なども起こり日本経済の長い平成不況が始まりました。

低成長と大災害に揺れる平成不況

1991年のバブル崩壊によって国・地方・企業・個人に至るまで、バブル経済中に泡として膨らんだ資産が消え債務だけが残る社会が生まれました。戦後地道に積み重ねた汗の結晶が大きく崩れる瞬間でした。

日本が置かれた円の変動制による対策として打ち出した金融政策は成功もしましたが大きな負の遺産を残す結果となりました。このバブル崩壊は長期政権を続けてきた自民党が下野する結果となり、野党8党の連立内閣細川政権が誕生しました。平成において日本のひずみが表面化し長い平成不況が続きました。国や地方財政がひっ迫し、多額の借金にあえぐ企業、土地神話の住宅ローン返済、阪神淡路大震災・東日本大震災など幾多の災害が日本を襲った台湾・中国・韓国などの新興国の台頭が顕著に、日本の生産が海外へ移転空洞化、少子高齢化、消費意欲の減退、世界金融バブル・リーマンショックなど幾多の困難を平成30年かけて地道に復活への道を歩み続けました。

令和2年に起こった新型コロナウイルスの脅威

令和2年1月21日に中国武漢市で感染拡大が起こり都市封鎖(ロックダウン)が起こって4か月、いま世界に何が起こって、どのように対処するか大きな人的・経済的な混乱の状態にあります。90年前の世界大恐慌以来の経済危機が起こっているといわれ、対応次第ではさらに拡大するといわれています。