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平成天皇 譲位で皇位継承 新元号へ

昭和天皇崩御によって皇位継承平成天皇誕生

1989年1月7日 早朝5時代々木の自宅を高木侍医長が吹き上げ御所に駆け付けたことがテレビで報じられ、皇居前に報道陣が殺到しました。

崩御の1年4カ月前開腹手術を受けられ「慢性膵炎」と報じられました。詳しい病状は明確に公表されませんでした。推測の中では消化器系のがんではないかとの憶測も出ていました。

天皇のご容態の維持状況は公になることはなく時が過ぎました。86歳になられた天皇に嘔吐などの状況が現れ、少しづつ体重の減少も見られ良くない状況は報道され、昭和天皇の容態は差し迫っていると日本の多くの国民は受け止めていました。

東大医療チームが形成され、医師団の治療が続けられ新年を迎えた1月7日、吹き上げ御所で崩御されました。同時に、秘密裏に新天皇と新元号の選定の準備も進められていたと思われます。

昭和天皇崩御の報道によって国民に知らされ、行事・イベントなどが控えられ国は「自粛ムード」になりました。

昭和天皇は大日本帝国憲法における元首天皇と日本国憲法に定められた象徴天皇の両方を経験した天皇です。

昭和20年8月15日 昭和天皇の玉音(肉声)放送による、”耐えがたきを耐え、忍び難きをしのび・・・”“のNHKのラジオを通して国民に“降伏を語り掛けました。

その後、象徴天皇として戦後復興・高度成長期を迎え、バブル経済の絶頂期の崩御でした。

平成誕生 崩御の日の午後2時 小渕官房長官が色紙に書かれた「平成」文字を掲げて元号の発表がありました。この時から現天皇「平成天皇」が始まり平和国家としての歩みを続けられました。

2600年の歴史を持つ天皇制は世界でも類を見ない「日本が誇る天皇制」として刻まれています。

平成天皇(125代)の歩み

平成天皇は我が国の発展と世界の平和を願う

第2次世界大戦の戦火の中で、疎開先で終戦を迎え焼け野原の東京に帰られた衝撃を大きかったと思います。

1933年(昭和8年)皇居内で生まれ「明仁」と命名、第2次世界大戦中は疎開先(日光・奥日光)で過ごされ、戦後はアメリカ合衆国の著名な児童文学者、エリザベス・ヴァイニング夫人が家庭教師につき薫陶を受ける。天皇陛下の歩みに大きな影響を受けた人になったと言われています。

美智子妃殿下もこの頃戦火を逃れて疎開先を転々とし、両殿下とも幼少期に激しい戦火と疎開を体験し焼け野原の東京に戻って悲惨さを体験しています。

1952年(昭和27年)皇太子成年式が挙行された。 その後、美智子様は聖心女子大学を首席で卒業。

皇太子は1953年(昭和28年)3月30日~10月12日までの半年間余り初の外遊。ヨーロッパ12ヶ国、アメリカ・カナダを歴訪、同年6月2日、」イギリス・エリザベス2世の戴冠式へ昭和天皇の名代として参列。皇太子として昭和天皇の名代の格式で加わったため応対する諸国では天皇としての応対を行った。第2次世界大戦の敵国としてイギリス国民の反発も大きかったが、チャーチル首相の大きなはからいで参列することが出来たと言われています。

皇太子ご成婚 1959年(昭和34年)4月10日 民間から初の美智子妃が誕生し、国民から熱烈な歓迎を受け、「ミッチー・ブーム」が起こり、成婚のパレードが盛大に行われました。高価なテレビも普及し始め全国で多くの人が祝福しました。

しかし、民間からの結婚に皇室の伝統を守って皇族からのお妃候補を推挙する話もあり、反対の意見が出たと言われています。皇室の伝統など厳しい状況がいろいろな局面で起こったと言われています。 

皇太子殿下のご成婚と美智子妃殿下

皇太子・美智子妃の平和への願い

ご成婚1959年ご結婚 ・1960年(昭和35年2月第1子・第一男子浩宮徳仁親王が誕生)

日米修好通商100周年記念 江戸幕府末期(1860年)に日米で調印した修好通商条約締結から100年を記念して、日・米で100周年記念行事が開かれ、5月には吉田元首相、同年9月皇太子殿下は美智子妃殿下を伴って訪米しアメリカ合衆国アイゼンハワー大統領と会見しました。 平和外交の一歩を踏み出されました。

・1965年(昭和40年)11月 第2子・第二男子札宮文仁親王誕生。・1969年(昭和44年)第3子・第一女子紀宮清

 子親王誕生。

美智子妃殿下は皇室のしきたりではなく、親王3人を自らの手で育てることを決意し実行されました。

 第二次世界大戦の敗戦(1945年8月15日)から米国を中心とした連合国軍による占領下にあり、6年後サンフランシスコ平和条約(日本・吉田首相)によって平和条約が締結し翌年発行され連合国による占領は終わりました。占領下の中で日本国憲法が制定され、基本的人権の尊重・民主主義・平和主義の基本原理として公布される。

60年・安保闘争 日米安全保障条約改定反対の闘争が59年~60年に反対する国会議員、労働者や学生、市民及び批准に反対する左翼や新左翼の運動家が参加した反政府・反米運動による国会議事堂前に押し寄せる大規模デモ運動で、自由民主党など政権側は安保騒動として強行採決に踏み切り、岸内閣は混乱の責任を取って、内閣総辞職をしました。同時に左翼の分裂や暴力的な闘争、抗争が激化し、運動は大衆や知識人の支持を失いました。

所得倍増を掲げた池田内閣誕生 対決政治の混乱の中で、総選挙までの4カ月「国民所得倍増計画」を打ち上げ、経済政策の面で「新政権の魅力」をアピールし経済へのチエンジをはかりました。(1960年~64年)

社会の混乱と転換期の中で両殿下はアメリカに修好通商100年の記念行事(1960年)で日米交流の役目を果たされました。

日米修好通商100周年 両殿下の海外歴訪の一歩ハワイ

昭和35年9月(1960年)両殿下は日米修好通商100年周年でアメリカ訪問に先立ち、戦争の引き金になったハワイの真珠湾を皇室として初めて訪れました。美智子妃殿下は常夏のハワイで着物姿をご披露し、戦時中に収容所など辛い体験を強いられた日系の人たちは両殿下の姿を見て涙しました。 両殿下はハワイへ10度訪れました。

沖縄返還 1972年(戦後27年後)

最後の激戦地であった沖縄は、戦後アメリアの施政下に置かれ、厳しい生活を余儀なくされました。1970年(大阪万博)の2年後、1972年(昭和47年)戦後27年を経て沖縄返還本土復帰がかないました。その後も日米安全保障の中で、米軍基地の70%は沖縄に今も残されています。

沖縄の復帰後 両殿下の沖縄への思い

1972年に沖縄県の本土復帰がかない、沖縄返還、沖縄県の日本本土復帰記念事業として沖縄海洋博を開催(1975年7月20日から半年間、国際博覧会の特別博)され、皇太子・妃殿下が沖縄を訪問しました。ひめゆりの塔に献花で訪れた時、天皇の戦争責任を問う左翼活動家が火炎瓶を投げつける場面もありました。

沖縄訪問は厳しい県民世論があり、道中で牛乳瓶、ひめゆりの塔の献花中活動家に火炎瓶を投げつけられても、同行の沖縄県知事に「気にしないでください」言われ、その日に陛下は談話を発表されました。「払われた多くの尊い犠牲は、一時の行為や言葉によってあがなえるものではなく、一人一人、この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません」と言われ、皇太子・天皇の期間、両殿下は11度沖縄へ慰霊の訪問をされました。

象徴天皇は多忙の中で役目は果たされる。

平成天皇が攘夷を語られて、天皇の公務の重大さと、多岐にわたる公務に驚かされます。両殿下は国民と共に歩まれ、国民に慕われ、寄り添って、尊敬されてきました。災害地に足を運ばれ、被災地でひざまずいて励ます両殿下を見て、多くの人が勇気づけられました。


平成4年天皇陛下中国訪問

1978年、全人代で鄧小平主席(共産主義における市場経済の開放)の改革開放が始まりました。

1989年、天安門事件など中国は民主化による混乱期にありました。

1992年(平成4年)天皇両陛下の訪中が決まりました。

訪中の天皇の思い(訪中前の天皇両殿下の会見)

日本と中国は地理的に極めて近く,長い交流の歴史がありました。日本人は古くから中国の文化を学び,それを元にして漢字から仮名を作り出したように,様々な面に日本の文化を育ててきました。したがって両国の間には似ている面と異なっている面が入り交じっていると聞いております。このような関係にある両国の人々が互いに理解を深め合い,友好関係を増進することは極めて重要なことと考えます。この度の訪問がこのような契機となれば幸いと思います。短期間の限られた地域への訪問でありますが,中国の文化や歴史に接するとともに,多くの人々と交わり,相互理解を深め,友好関係の増進に資するよう努めていきたいと思っています。(宮内庁)

天皇両殿下 海外へ訪問

平成天皇 国内被災地へ

昭和天皇崩御をもって今生天皇平成が誕生しました。平成3年2月のバブル崩壊によって、政治・経済が混乱し、自民党が政権を失い、社会が混迷する中で連立を組んだ社会党村山内閣が誕生していました。平成7年1月17日早朝「阪神・淡路大震災」が起こり6500人近い犠牲者と都心の中心地で多くの家屋やビルと交通網の崩壊、インフラの寸断によって戦後最大の震災を経験し、日本社会は大混乱に陥りました。

兵庫県では、インフラの寸断と家屋の倒壊で緊急道路が確保できず、寸断した電気・ガス・水の供給がままならず、被災地は大きな混乱の中にありました。

経験したことのない暗闇の中で、被災地はもがいていました。

ボランテイア活動元年といわれる、体制や経験が始まった年でもありました。

天皇陛下も心配の中にいました。現地を訪れたい希望を叶えるため、兵庫県は1台のバスを用意しました。

両陛下はバスに乗って移動しながら、避難先を訪れ勇気づけられました。

当時、オリックス「がんばろう神戸」を掲げてプロ野球に臨み優勝しました。イチロー選手もいました

東日本大震災の大惨事



天皇陛下の公務